どうも、めがねマンです。
最近、メガネのひとり言にたくさんのアクセスがありとても嬉しいです。
というわけで今日は、筆者めがねマンの生い立ちをwikipedia風に記事にさせていただこうと思います。
そんなの興味ねーよ!!なんて思わないでくださいね♪
ではさっそく。
1983年
愛知県の山あいの超ど田舎で4人兄弟の長系として生まれる。
(実際に生まれたのは隣の大きな市の病院である。)
幼少のころは、やんちゃなくせに甘えん坊で泣き虫という困った性格で過ごす。
地元の小さな保育園に通い始めてからも、3年間毎朝泣いていたという逸話がある。
1990年
小学校入学
同級生は11人。もちろんクラス分けなど皆無の全校児童70人ほどの小さな学校。
当時くせっ毛でぺたっと張り付くような髪質であった。
そのため入学式でのカリメロのような頭の写真が後に話題となり、校内でヅラ疑惑が浮上するが本人は否認しつづけていた。
小学3年生になった時、都会からの転校生(A君)が転入してくる。
(親が公務員であったため3年間の期限付きの赴任のための転入であった)
田舎の小学校にとって転校生は珍しく、たまたま家が近くであったため学校帰りによく遊ぶようになる。
(とはいっても1kmほど離れていたのだが、田舎の感覚ではこれを近いという。)
ある日A君といつものように帰り道の田んぼでイモリやカエル、ゲンゴロウなどを捕まえていたところ田んぼの所有者から田んぼ荒らしと間違われこっぴどく叱られたあげく、学校にも通報され翌日2人で職員室に呼び出されるイモリ事件が発生。
5年生が終わったときA君は再度都会に引越してしまったが、イモリ事件は今でもいい思い出である。
ちなみに、めがねマンは勉強はできなかったが、体は丈夫で3年生~6年生まで皆勤賞をもらっている。
1996年
中学へ進学。学年は140人ほどで小学校の規模から比較するとマンモスである。
自宅から学校まで約10kmと一般的にはありえない距離をバスで登下校する。
やんちゃな性格はますますエスカレートし、授業中はクラスメートを笑わせることに徹底していた。現代であれば社会不適合者といったレッテルを貼られるレベルだったと思われる。
それゆえ成績は常に100位前後。2ケタ順位なら御の字。
ただし理科だけはなぜか得意で、理科単体ではトップ10の常連であった。
めがねマンは4人兄弟ということもあり、比較的貧乏な家庭で育ったため、お小遣いというものがなく、中1の後半から同級生の影響で新聞配達のバイトを始める。
この新聞配達は後に高校卒業までの約5年間続けることになる。
中2になると当時流行りだしたブラックバスフィッシングにのめり込む。
(もちろん釣り道具は新聞配達のバイト代から捻出している。)
特にテスト週間で半日授業の日なんかは勉強そっちのけで釣りに出かけていた。
そのことが担任にばれて、クラスメートの前で公表され釣りバカのイメージが定着。
しかし釣果が伴わなかったため、BASS NO GET CLUBという謎のクラブの代表者に任命されてしまう。
このような中学生活を送っていためがねマンにも進路決定のときが訪れる。
そもそも勉強が好きではなく、ようやく9年もの義務教育を終えるのだから就職を希望していた。しかし担任や親からは進学を勧められる。
それならと、パソコンに興味をもっていためがねマンは県立の工業高校への進学を希望する。
しかし前述のような成績であり、担任から「無理!」の一言で片付けられ、私立高校の情報系の科への単願でしか進学の道はないと説得されしぶしぶ受験。
この時の履歴書への自己アピールは新聞配達を続けた忍耐力と、小3~中3までの7年間の皆勤という特異なアピールとなった。
受験は見事合格。
とはいっても私立の単願で落ちた人など周りでは誰1人としていない。
1999年
高校へ入学
前述のようにめがねマン家は比較的貧乏であ合ったため入学金や授業料を捻出するために代々持っていた山を売却。
といっても価値は相当低く当時軽自動車が買えるか買えないかの金額だったと聞かされている。
上記のエピソードから、さすがに迷惑を掛けたと思っためがねマンはようやく真剣に勉強に取り組むようになり、クラスでトップ5に入る成績を残せるようになる。
それと同時に高1で運命の出会いともいえる友人と出会う。
この友人たちとは後に社会人になってから、初の海外旅行に一緒に行くことになる。
この友人たちとは現在も家族ぐるみの付き合いがあり、当時から数えると18年もの付き合いになり、めがねマンの親友と呼べる友人たちである。
高2になり修学旅行があった。
我が高の修学旅行は若干特殊で、行き先は沖縄でそこそこ一般的であったが、往路は客船、復路が飛行機というなかなかトリッキーな旅程であった。
ちなみにこの復路の那覇~名古屋(現在の県営名古屋小牧空港)が初の飛行機搭乗である。
高3になりなんだかんだいってもやはり貧乏だっためがねマン家、間もなく卒業して車の免許を取得するのに親には頼ってはいられない。
そう思っためがねマンはケーキ工場でのアルバイトを始めた。
コンベアに乗って流れてきたケーキを箱詰めする簡単な作業。
時給700円くらいだったと思う。
このころから自分の労働力でお金を稼ぐことに喜びを感じ、平日は学校が終わってから、土日もできる限り働いたおかげで免許代くらいは悠に稼ぐ事ができ自力で免許取得できたことはすごく嬉しかった覚えがある。
高3夏またもや進路決定の時期がやってきた
成績は悪くはなかったが、別に勉強が好きになったわけではなく親に迷惑を掛けた責任感から勉強をしていただけで、進学をしようなんて気は全くなかった。
それに前述のように労働で対価を得ることにすごく魅力を感じていたので、就職しか頭にはなかった。
めがねマンの住む愛知県は就職にはとても恵まれており、大手自動車メーカーや関連企業の求人が多かった。
クラスメートからは「大手の自動車関連一緒に受けよう」と誘われたが、「そこのメーカーの車しか乗れないからやだ!」と謎の意地を張って直系ではない自動車関連の会社を受験することにした。
幼少からのひねくれた性格はこんなところまで影響を受けているようです。
だいぶ長くなってきたので、今日はここまで。
それにしてもめがねマンってひねくれた人物ですね。
そんな私の生い立ちをここまで読んでくださった方もだいぶ変わり者かもですね。笑
よければまた次回も読んでくださいね♪
以上、めがねマンでした。